| この記事の内容は六つに要約される。 |

内ヶ磯窯跡
直方市教育委員会「古高取 内ヶ磯窯跡」より |
| 1. |
鷹取焼の由来は、「朝鮮軍」(文禄慶長の役)の時、黒田長政の手に捕らわれた人たちのなかに、焼き物の陶工で巧みなものがいたので、名を八蔵に改めさせた。
加藤清正の手にも新九郎という陶工もいた。両人とも高麗に井土という村の出身者で、八蔵は新九郎の聟で、八蔵の妻も日本にやってきた。 |
| 2. |
長政は家臣の手塚水雪に命じて、水雪の居城鞍手郡鷹取で八蔵に焼物を焼かせた。
その後、新九郎も招き入れて共同で焼いた。程なく新九郎は死去したが、これが鷹取焼であるという。 |
| 3. |
二代藩主忠之の時、伏見奉行の小堀遠州のもとに八蔵とその子八郎右衛門を派遣し、教えを請う。その後遠州好みを制作する。八郎右衛門病気にて死す。
末子新九郎が家をとり、八蔵(二代)を継ぐ。 |
| 4. |
五十嵐次左衛門については、唐津寺沢家に仕え、その後浪人して筑前に来る。
忠之が召し出して、八蔵と同じ鷹取において焼物をつくらせる。 |
| 5. |
遠州が名付けた茶入れは染川・横岳・秋の夜で、横岳は酒井讃岐守忠勝へ、秋の夜は小笠原山城守長頼にそれぞれ忠之が贈った。染川と同じ時製した耳付きの茶入は名はないが、横岳と似ているのもので、黒田家の手元にある。 |
| 6. |
高取焼の変遷については、次のように記述されている。
慶長一九年(1614)に内ヶ磯、寛永七年(1630)に白旗山、寛文七年(1667)鼓村で、元禄一七年(1704)南田島村松山(早良郡田島)の内で焼く。
高取焼の発祥の窯の年代は、ここでは文書の中でとらえることができる。
すなわち、手塚水雪が高取焼の創業に関与していることからである。 |