高取焼の概説

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高取焼略年譜  高取焼の概説

高取焼の概説

1、文禄・慶長の役と高取八山

 天下を統一した豊臣秀吉は、西暦1592年から98年にかけニ度にわたって、朝鮮半島に出兵した。これをおのおの文禄の役・慶長の役という。
 当時朝鮮の陶器は日本より進んだ水準にあったから、出兵した日本の大名は、数多くの朝鮮陶工を連れ帰り、自己の領地で窯を開かせた。佐賀県の唐津焼・有田焼、鹿児島県の薩摩焼、福岡県の上野焼など、のちに地域の特産となった陶器はこのときに始まった。
 のちに福岡藩主となる黒田長政も、このとき「八山」なる陶工を召し連れたと伝える。

2.永満寺・宅間窯ひらく

 黒田長政は関ケ原の合戦の戦功で豊前から筑前に国替えになっだ。『筑前国続風土記』によれば、家臣の手塚水雪の居城鷹取城のふもとで窯を開かせたという。その場所は現在の直方市永満寺宅間釜床にあたる。水雪が鷹取城主だったのは慶長11年から19年までだから、窯が開かれたのは西暦1606年のころとされる。八山は鷹取山にちなんで、日本名を鷹取八蔵茂貞と改めた。
 昭和57年に市教育委員会によって発掘調査がなされ、昭和63年に直万市指定文化財に指定されている。

3.内ケ磯窯跡

 高取焼の窯は、その後慶長19年に鷹取山の南ふもとの内ケ磯(直方市頓野内ケ磯釜の尾)に移転した。その理由として、宅間では地形の制約で大きな窯が築けないこと、当時黒田藩と不仲だった豊前国小倉領との境に近かったことがあげられる。
 内ケ磯窯では全長46メートルにおよぷ巨大な登り窯が作られた。半地下式の連房式階段状登り窯という形式で、この種の窯としては国内最大級とされる。
 製品も日用の雑器から高級な茶器までが作られ、最近の発掘調査の結果、技術的には唐津焼や、遠く備前焼との技術の交流が指摘されている。
 また、従来上野や唐津の名品とされていたもののなかに、内ケ磯窯製品がかなり含まれることが知られてきた。

以上のニケ所の窯で作られた陶器をとくに「古高取」と総称する。

4.山田窯

 寛永元年(1624)、八蔵は二代藩主忠之の勘気にふれて追放となり、今の山田市に移った。
 これは祖国朝鮮への帰国を願い出たためといわれる。このころ朝鮮側から、文禄・慶長の役で連行された朝鮮人を返還せよとの働きかけが行われていた。八蔵もこれに応じたものと考えられる。山田窯での作品は、藩の庇護がなくなったため、高級茶器などは見られず、日用の雑器が多い。

5.白旗窯

 寛永7年(1630)、八蔵は許されて現在の飯塚市幸袋に窯を開いた。これが白旗窯である。
 この頃、八蔵とその長男八郎右衛門は将軍家の茶道師範である小堀遠州の指導を受けた。これ以後、「遠州高取」として知られる、繊細で優美な作品を残している。
 承応3年(1654)、八蔵はこの地で生涯を終えた。近年まであった朝鮮風の墓は住宅団地の開発で移転、跡地には石碑が建てられている。

6.小石原の窯と福岡の高取焼

 八蔵没後の寛文5年(1665)、窯は小石原村の鼓に移転、またその後は藩主の御用窯として福岡城下にも窯が開かれ、ニカ所で操業された。
 明治の廃藩置県により、福岡藩御用窯も廃窯となった。その後昭和32年にいたって八山の子孫に当る十一代静山氏が小石原鼓で窯を再興、現在は十三代に至っている。

7.高取焼は直万の宝

 400年の歴史を持つ高取焼が直万で制作されたのは、「古高取」と呼ばれる20年ほどの短期間にずぎない。同時に美術的に高い評価を受ける名品が作り出された、高取焼の「黄金期」でもあった。
 にもかかわらず、その後の窯の移転などで、伝統工芸として正当な評価をうけなかったことが、地元でも高取焼への関心がいまひとつ高まらなかった一因と思われる。
 内ヶ磯窯跡は現在福智山ダムの水中に沈んでいるが、このときの発掘調査で知られた知見は、これまでの高取焼の常識を書き換えるものとなった。
 400年前の直万が「全国区」の名品を数多く製作したことを市民の誇りとしてよいのではなかろうか。

050120 高取焼400年祭準備委員会・高取焼400年祭広報資料より抜粋させていただいております。

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